体育授業における武道(柔道)の在り方
現行の中学校学習指導要領(平成20年3月 告示)から保健体育科の体育分野において「武道」領域が第1・第2学年で必修となり,特に安全指導に関わってその指導の在り方がマスコミにも注目され,文部科学省においても「柔道の授業の安全な実施に向けて」(平成24 年3月)を作成するなどの対応をしている。学習指導要領において,領域名称が「武道」と改められたのは平成元年である。それまでは「格技」の名称で武道種目の指導が行われていた。この領域名が改められたことにどのような意味があったにせよ,各学校における指導内容そのものが大きく変更されたことは当時なかったのではないかと考える。平成元年に「武道」と改められた基本的な考えは,21世紀を目指し社会の変化に自ら主体的に対応できる心豊かな人間の育成を図ることを基本的なねらいとした教育課程審議会答申(昭和62年12月)に基づいている。この答申に盛り込まれた教育課程の基準の改善方針の一つに「国際理解を深め,我が国の文化と伝統を尊重する態度の育成を重視するこ と」が挙げれらており,体育については,諸外国に誇ることの出来る我が国固有の文化として,歴史と伝統のもとに継承されてきた「武 道」を取り上げ,その特性を生かした指導ができるようにしたものである。ここで,「武道」が我が国固有の文化であり,歴史と伝統を有するのであれば,それまでの名称である「格技」についても一考を要するのではないかと考える。「格技」という名称は, そもそも戦後の武道教育の変遷の中で,昭和 33年以降に学習指導要領における運動領域名として用いられてきたものである。戦前も「武道」として柔道や剣道(撃剣) は学校教育に取り入れられていたものの,戦中は武道を通した教育が当時の軍部に利用された経緯がある。このことから,戦後は連合国軍総司令部(GHQ)が日本を物理的にだけでなく思想信条においても武装解除しようとしたことにより武道教育が禁止され,昭和25年に再開されるまで武道教育の空白期間がある。その後に「格技」が登場しており,平成元年に改められるまで長きに渡り用いられ各学校に浸透してきた。現在でも,例えば各学校における柔道や剣道を指導する施設をいまだに格技場という名称で使用している例も多い。その次の改訂(中学校は平成10年12月,高等学校は平成11年3月)においても,教育課程審議会答申(平成10年7月)における改善の基本方針の中で武道については,「我が国固有の文化に触れるための学習が引き続き行われるようにする」ことが特記され,元年の考え方が継承されている。 近年における武道教育の充実の考え方は,平成18年12月の教育基本法の改正により,教 育の目標として「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛すると ともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」(第2条の5) とされたことにより一層の方向性が示されたと考えられる。この改正を踏まえて,現行の学習指導要領が改訂されている。改訂は中央教育審議会答申(平成20年1月)に示された改善の基本方針や改善事項に基づいており,武道については,「その学習を通じて我が国固有の伝統と文化に,より一層触れさせることが出来るよう指導の在り方を改善する」とし,引き続き考え方が継承されている。これらのことを踏まえ,現行の学習指導要領においては前述のように「武道」が必修となったものと考える。以上のような経緯はあるものの,現状では柔道指導が安全面から危惧されている状況もあり,体育授業における「武道」の在り方について,武道の何を指導し,何を生徒たちに身に付けさせたいのか,そのためにはどのような指導内容や方法が求められているのか等について改めて考えることが必要ではないかと考える。「武道」に対するこれまでの考え方の変遷や, 武道の中でも,特に柔道の指導について,その課題や改善すべき内容等について検証する。
「武道」という言葉はたして「武道」とは何であるのか
現在では柔道や剣道,弓道,空手道等の日本古来の武術の総称であり,それらの練習を通して人間教育にも有益なスポーツとして一般的に認知されており,また,学校の体育授業で行われている領域名との理解も進んでいる。 しかし,こういった意味で理解されるのは, 早くても明治以降であり,おおよそ江戸時代以前は,柔術や剣術,弓術等の総称などではなく,武事・武術と同じ意味に使われ,あるいは当時の武士階級の行動や思想の在り方を示す武士の倫理としての「武士道」や「士道」 と同義語として使われていたことは明らかである。杉山は,「武道」の意味について,「武道」 という言葉の意味は,おおよそ次の三つに分 かれる。①武士の守るべき道,武士道に同じ。②武術に関する道,軍事上の事柄,武士として常々なすべきこと,すなわち,弓,馬,槍,剣など武芸に関する術の錬磨,弓矢の道。③ 歌舞伎用語で,武術に達した忠義な武士に扮する役,武道方。ここでは③は別として,武道には,道徳,倫理,つまり思想としての概念と,武術や武芸に関した修行や方法といった概念とに大別できるが,いずれにしても,もともと文道に対する言葉であったと考えられると述べている。(杉山,2002,p.10)武術の技術面の進歩について,平安時代以降,武士階級は実に多くの命のやりとりをした戦の経験を通じて様々な戦闘・格闘技術を開発している。その中で,主に素手や小型の 器を使用する武術は「柔術」などと呼ばれ,全国に167の柔術流派が存在したと言わ れている。また,剣術718流,柔術179流,槍術148流という説もある。特筆すべきは,明治になって,それまでは単なる身体活動であり,自身の身体を守ることを含めた殺傷技術である「柔術」から,人間教育の目的を持った「柔道」を創設した嘉納治五郎の存在である。嘉納による講道館柔道の創始とその発展によって,他の武術も剣道や空手道と「術」から「道」へと名称を変えている。嘉納は,柔道を当時の考え方による武道と呼ばれることを好まなかったとされているが,明治以降の武道の在り方に大きな影響を与えていることは確かである。嘉納の柔道及び武道に対する思考については後述する。
江户の武道
「武道」は,その時代によって異なった意味を含んで使用されている。富木は,「武道」について,「武術は,戦闘を任務とした武士の間に奨励されたが,これらの武術ばかりでなく戦術までもふくめて武道と称したこともあったし,また,この武技を専らとする武士の日常守るべき道徳規範のことを武道と称したこともあった。武道の同義語には「兵の道」,「弓矢の道」,「弓馬の道」,さらに「武者道」,「侍道」,「武辺道」ともいい「士道」,「武士道」とも称された。これらを歴史的にみるならば,古い時代にはほとんどすべてが道徳的意味に用いられ,中世から近世にいたっては技術的意味に転化してきたように思われる」としている。(富木,1991, p.31)言葉そのものは鎌倉時代の歴史資料にはすでに現れており,この時代,中世における「武道」は,主に武事・武術の意味に用いられていたとされている。しかし,戦国時代の末期 になると武道の語義が多様化し,武士の倫理としての「武士道」の意味に用いられる例が現れ,武事・武術と武士道の二つの意味を含んだ言葉として使われるようになったと考えられる。また,近世の江戸時代になると,各種の歴史資料に「武道」が使用されるようになる。寒川は,「武道」の字は中世以来,武事・ 武術の意に用いられ,近世の入口に至って初めて新しく武士道の意味を加えたが,旧義は近世においても変わることなく用いられ続けたということである」と述べている。(寒川,
2014,p.218)
明治以降の武道
近代の明治時代に入っても「武道」が武事・ 武術の意味に使われることは続いたと考えられている。講道館柔道の創始者である嘉納治五郎が,柔道を「武道」と呼ばれることを好まなかったのも,明治の初めは武道が一般的に武事・武術と理解されていたことによるものである。この頃の時代背景は,富国強兵の言葉が示すように列強国に負けない国づくりのまっただ中にあったことである。この明治政府による武士階級の消滅は,武士の任務であった各種武術の衰退を招いたことにつながるが,その一方で,明治5年(1872)の学制による学校教育での武術の展開が試みられることになる。その後,明治44年(1911)に中学校令が 改正されたことが,我が国における学校での武道教育の始まりである。このことについては後述する。このように,武術が学校教育と関わりを持つようになると,新しい概念,つまり「武道」は武術の稽古によって身体を鍛えるとともに,日本精神を陶冶する心の教育であるとする認識が生まれることになった。この認識を最も明瞭にしたのは,西久保弘道(1863〜1930)であると言われている。西久保は,福島県知事,北海道庁長官,警視総監を歴任し,後に武術専門学校長となっている。寒川は,西久保の新しい武道概念について,「国民一般に対しても亦大に奨励しなければならぬ,なぜなれば健全なる身体と剛健なる精神とは何人にたいしても必要欠く可らざる要件であるからである」。また「之を要するに武道の目的は吾人の身体を完全に鍛えると同時に其心胆を充分に練るということに在るのである,であるから如何なる職務如何なる事業に従事するものでも武道の修練を必要としないものはない」。ユベナリウスを引いて国民の心身教育文化としての「武道」を説いていると述べている。(寒川,2014,p.225)西久保は,大正8年(1919)に大日本武徳会の副会長兼武術専門学校長に就任し,もう一つの改革を成し遂げる。それは,大日本武徳会における呼称をすべて「術」から「道」へと改めたことである。柔術は柔道,剣術は剣道,弓術は弓道,武術専門学校は武道専門学校と改めたことにより,柔道や剣道,弓道等の総称としての「武道」と,また武道の稽古による心身の教育としての「武道」の概念が明確になり現代まで続いていると考えられている。
現代の武道
嘉納治五郎により明治の初めに創始され,心身の鍛練を通じた人間教育としての講道館 柔道やその思想に基づく他の武道種目であったが,日中戦争から太平洋戦争へと戦局が拡大する中で,当時の軍部にその活動を利用された時期を経て昭和20年(1945)に終戦となり,武道はさらに大きく変化することになる。戦後,日本を統治していたGHQは,過去の軍国主義に積極的な役割を持ったとして,学校での武道禁止令を発し,また大日本武徳 会を解散させた。しかし,講道館柔道が従前から海外に指導者を派遣するなど普及に努めていたことも幸いし,駐留米軍兵士が数百人も講道館に入門するなどの経緯も影響したのか,民主的な新しいスポーツとして生まれ変わったとして,禁止から5年後の昭和25年(1950)に,先ず柔道が学校での実施を解禁された。こういった経緯の中で現在の武道が位置付 けられており,現在の武道の意味を最も良く表してるのは昭和62年(1987)に制定された「武道憲章」ではないかと考える。この憲章は,日本を統括する武道競技9団 体(柔道,剣道,弓道,相撲,空手,合気道,少林寺拳法,なぎなた,銃剣道)と日本武道館が設立した「日本武道協議会」が共通の指針として作成したものであり,この内容の理解が,現在一般的に受け入れられている。武道憲章の前文には,「武道は,日本古来の尚武の精神に由来し,長い歴史と社会の変 遷を経て,術から道に発展した伝統文化であ る」とあり,かつて「術」として,武事・武 術や武士道と同義語とされていたことから脱皮し,「道」に発展し,心身の鍛練や人間教 育としての武道であるとしている。さらに,第1条(目的)には,「武道は,武技による心身の錬磨を通じて人格を磨き,識見を高め,有為の人物を育成することを目標とする」として,武技による心身の鍛練を手段として,社会に有為な人材を育成することが目的であるとしている。「武道」がこの語義にたどりつくまでには 長い年月を要している。
Ⅲ.武道教育
明治の武道教育
明治5年(1872)に学制が公布されたことにより,学校の中に武道教育を取り入れることが試みられるが,明治政府による明治9年 (1876)の廃刀令の公布,あるいは京都府知 事による明治13年(1880)の「撃剣技術ハ無 用ニ付キ論達ノ件」が発令されるなど,武士 の文化であった武事・武術は不要のものとして衰退しており,状況は極めて厳しいもので あった。嘉納も上京後に柔術を学ぼうとしたが,父親には反対され,心得のある知人に頼 んでも今時そんな必要はないと顧みてはくれなかったと語っている。このような時代の中でに注目すべきは,明治15年(1882)に嘉納が講道館柔道を創始したことにより,警察や軍隊等での武道指導など,武道復活の気運が高まったことであ り,こういった背景から,文部省は,明治16年(1883)に体操伝習所に対し「撃剣・柔術ノ教育ニオケル利害適否」の調査を諮問している。結果として不適当とされたが,このことは,学校教育に武道教育を取り入れるための我が国初の動きであった。この時,体操伝習所は,柔術や剣術のいくつかの流派に実演させているが,嘉納の講道館柔道は行っていない。翌年出された回答には,「二術の利とする方」として,「身体の発育を助く」,「精 神を壮快にし志気を作興す」など5点,「害若しくは不便とする方」として,「身体の発育往々平等均一を失はん」,「実習の際多少の危険あり」,「身体の運動適度を得しむること難しく,強壮者脆弱者共に過激に失し易し」,「精神激し易く,ややもすれば粗暴の気風を養うべく」,「教場の坪数を要すること甚大なり」など9点をあげ,導入は不適当としている。この当時の武道には,生徒の発育や発達段階にあわせた指導法などは考えられておらず,当然の結果とも言えるものである。その後,文部省は,明治29年(1896)に学 校衛生顧問会に,剣術と柔術の衛生面から見た導入可否を諮問している。答申内容は,「満 16歳以上ノ強壮者ニ限り正課外ニ行ハシムルハ可ナレドモ随意科目ト
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外文文献翻译
译者:隗营秀 20131322037
在现行的初中学习指导要领(平成20年3月告示)中,保健体育科的体育领域,“武道”成为第一、二学年的必修课,特别是有关安全指导的状态,也受到媒体的关注。文部科学省方面在“柔道课的安全实施方向”(平成24年3月)进行了相对应计划。在学习指导要领的过程中,于平成元年将领域名称改为“武道”。而在那之前都是以“格技”的名称进行武道项目指导。无论领域名词改成了什么意思,当时在各个学校的指导内容并没有很大的变更。而在平成元年改成“武道”的基本考虑是出于,在21世纪,目标社会的变化以自己为主体,根据教育课程审议会(昭和62年12月)的基本决策,我们要致力于培养可以丰富精神世界的人才。这个报告加入了教育课的基本改善方针之一:我们要大力发扬“加深国际理解,重视培养对我国文化传统的尊重”这个方针。在体育方面,作为可以向别国夸耀的日本固有文化,在历史和传统的基础上继承下来的“武道”,能够发挥其特性,有一定的指导意义。在这里,“武道”是我国固有的文化。如果有历史和传统技术的话,那我们也要考虑一下是否继续使用“格技”这个名称的问题。原本在战后的武道教育的变迁中,也就是昭和33年以后,作为学习指导要领方面的运动领域已经有所运用。战前,作为武道的柔道和剑道被引入学校教育。战争时期,经过了通过武道教育被当时的军部所利用这种情况。从这件事以后,直到战后,联合国国军总司令部(GHQ)不仅在物理学的思想信条方面,也根据军事解除禁止了武道教育。直到昭和25年重新开始武道教育,其间都是空白期间。在那之后,“格技”就登场了。平成元年武道被重新整改,并且长期渗透进各个学校。比如现在,各学校的柔道和剑道的指导设施至今仍然使用格技场的名称的例子也很多。接下来的修订(初中是平成10年12月,高中在平成11年3月),教育课程审议会(平成10年7月)关于武道的改善的基本方针中,特别记载了“要为了接触我国固有文化继续学习”的事情。于是也就继承了元年的想法。与平成18年12月教育基本法的改正相比,近几年对于武术教育的充实思考,“将尊重传统文化作为目标,既热爱祖国故土的同时也要尊重他国,要培养为国际社会和平发展做贡献的态度(第二条5)”,这也是更进一步明示了方向性。根据这个修订来改正现行的学习指导要领。这次修订是建立在中央教育审议会(平成20年1月)表示的改善基本方针和改善事项的基础上,关于武道要继承继续反思的方式方法,即“通过对我国固有传统文化的学习,来进一步改善指导的现有状态。”以此为基础,在现行的学习指导要领上,像前述的那样把“武道”列为必修课。虽然有以上的情况出现,但从柔道指导的安全性出发,现在也会有一些令人担忧的状况。关于体育课中武道应有的现状、指导武道的哪些方面、我们希望让学生学习到的、为此我们不得不考虑要用什么样的指导内容和方法。目前来讲在武道中,尤其是武道指导方面,对于武道思考方式的变动,还是需要对这一课题和应该改善的内容进行验证。
“武道”一词是什么样的概念呢?
现在是指柔道、剑道、弓道、空手道这些日本自古以来的武术的总称,一般被认知为,通过这些练习,有益于人类的体育方面的教育。另外,在校体育课中开展的对领域名称的理解也在逐步进行。但是,用这种意思理解的却是另外一种。早在江户时代以后,也就是大约在明治以前,并没有对柔道、剑术和弓术的总称,武事和武术以同样的意义被使用,“武士道”和“士道”作为可以表示武士道德的同义词,比较明显地揭示了当时武士阶级的思想行为状态。“杉山”是“武道”的意思,而“武道”这个词的意思是,可以大致分为三层:①武士应该守护的道路,就如同武士道一样。②与武术相关的道义,军事方面的事情,是武士应该经常从事的时期,即与弓、马、枪、剑等武艺相关的磨练,使用弓箭的方法等等。③ 歌舞伎用语,扮演武术中忠义武士扮演的角色,即武道法。在这里③ 就应该另当别论。在武道中,像道理、道德这样思想意义上的概念,可以大致区分为武术和武艺的修行与方法上的概念,反正不管怎样,都认为是在叙述原本关于文章中的词汇(杉山,2002,p.10)。关于术的技术方面的进步,在平安时代以后,武士阶级在许多用生命交流的经历中开发出各种各样的战斗·格斗技术。在那之中,以空手和使用小型武器的被成为“柔道”的武道为主。据说全国有167种的柔道流派。另外,有这样一种说法:剑术有718种流派、柔术有179种流派、长枪术则有148种流派。特别值得一提的是,到了明治时期,有这样一种叫做“柔术”的单纯的身体活动,既要有自身防守又要包含杀伤技术,嘉纳治五郎以教育人类为目的,创立的柔道的存在意义。嘉纳根据讲道馆柔道的创始及其发展,将武术中的剑道和空手道中的“术”变为了“道”。明治以后,嘉纳因为不喜欢当时把柔道称为武道的方式,确实受到了
武道当时状态的很大影响。之后会讲述嘉纳的柔道及对武道的思考。
江户时代的武道
“武道”一词在那个时代已经有了不同的含义。关于“武道”,富木的说法是“武术是以战斗为任务的武士受到的奖励。这里的武术不仅仅是战术,而是对又一定节奏的武道的称呼。另外,这种作为武士日常应当遵守的道德规范的武技,也曾被称为武道。武道的同义语是“兵之道”、“弓箭之道”、“弓马之道”,或者也被称为“武者道”、“侍道”、“武辺道”这类更好的“士道”和“武士道”。如果按这些历史来看的话,在古代,几乎所有的一切都在道德的意义上。从中世到近世,技术上的意思又进行了转化。(富木,1991,p.31)语言本身是在镰仓时代的历史资料中出现的,而这个时代,中世的“武道”,主要被用在了武事·武术的含义上。但是,战国时代末期的武道的语义便有了多样化,例如出现了作为武士道德的“武士道”的含义被运用起来的情况。人们认为应该使用作为武事·武术和武士道的两个含义的语言。另外,到了近代的江户时代,在各种各样的历史资料中都使用了“武道”一词。中世以来,“寒川”作为武道的字眼,也包含了武事·武术的含义被运用起来。近世初期,又加上了新武士的意思,据说旧义也在近世中不断变化。(寒川, 2014,p.218)
明治以后的武道
近代时期,武道继续使用着武事·武术的意义。讲道馆柔道创始人嘉纳治五郎,也不喜欢被称柔道为“武道”。明治初期武道一般被理解成武事·武术这类的东西。这个时候的时代背景也有所不同,坚决不向各个强国屈服,要展示富国强兵的姿态,是当时建设国家的大事。明治政府的武士阶级的消亡,有任务的武士导致了各种武术的衰退。另一方面,明治5年(1872),根据学制,学校开始尝试进行武术教育。之后明治44年(1911),中学校令被修改,在日本开始了学校的武术教育。关于这件事以后会有详细描述。就这样,武术与学校教育相关联,全新的概念,也就是说,“武道”是根据武术的练习而锻炼身体的同时,也产生了用日本精神陶冶心灵的教育认知。据说对这种认识最真切的是西久保弘道(1863〜1930)西久保准是福岛县知事、北海道厅长官、历任警视总监,后来成为武术专科学校校长。寒川就是西久保对新武道概念的再次诠释:这是对于国民普遍要有的必须的奖励,如果要问为什么的话,那就是人们不能没有健全的身体和刚健的精神。总之武道的目的是要锻炼身体的同时,其心胆也要接受完全充分的锻炼。因为什么样的职务从事什么样的事业,武道的修炼是很有必要的。尤贝纳利乌斯说,这是一个讲述国民的身心教育文化的“武道”。(寒川,2014,p.225)西久保在大正8年(1919年)就任日本武德会的副会长兼武术专门学校校长,当时的他已经完成了一项改革,就是将日本武德会中对“术”的称呼都改成了“道”。柔术改成了柔道、剑术改成了剑道、弓术改成了弓道,武术专门学校业改成了武道学校。自此,柔道、剑道和弓道统称为“武道”。另外,通过武道练习培养身心教育的“武道”概念
也变得更加明确了。
现代的武道
嘉纳治五郎在明治初期创立柔道。从日中战争到太平洋战争的战局不断扩大的过程中,当时的军部利用该活动在昭和20年(1945)终止战争,武道作为锻炼身心教育人们的讲道馆柔道和基于这种思想的其他武术种类,产生了更大的变化。战后,统治日本的司令部认为武道对过去的军国主义有一定的刺激作用,于是在学校中禁止了武道。另外日本武德也会解散了。但幸运的是,讲道馆柔道是从前海外指导者受派遣而努力传播普及过来的,数百名驻留的美军士兵业受到了讲道馆的影响,开始入门学习。作为新民主运动,之前被禁止的柔道在五年后,也就是昭和25年(1950)得到了解禁。武道在这样的经过中有了一种定位,现在的武道的意思完好地诠释了在昭和62年(1987)所制定的“武道宪章”。这个宪章统括了日本的九种武道比赛团体(柔道、剑道、弓道、相扑、空手道、合气道、少林拳、长刀、枪剑道)和日本武道馆设立的日本武道协会遵循的共同方针。现在的人们一般也都接受了对这些内容的理解。武道宪章的前述中提到:“武道是日本自古以来的尚武精神,在漫长的历史和社会变迁中,是一种由术到道的传统文化的发展。”作为曾经的“术”,武事·武术和武士道的同义词已经脱离,在“道”的发展过程中,渐渐成为了锻炼身心、教育人们的武道。此外,第一条中也有提及:武道是磨练身心、锻炼人格意志的武技,可以提高见识,将培养人才作为目标。武技是锻炼身心的方式方法,意在社会中培养人才。对于武道一词的真正理解要经过长年累月的不断积累。
Ⅲ.武道教育
明治时期的武道教育
明治5年(1872),学校中根据学制公布要开始尝试武道教育,明治政府在明治9年(1876)颁布了废刀令。明治13年(1880),京都府知事颁布了“击剑技术无用附件”,武事·武术作为不必要的武道文化开始衰退,这种情况极其严峻。嘉纳上京后也打算学习柔术却遭到了父亲的反对。他却拜托有经验的熟人,向其诉说着如今看来没有必要的话。在那样的时代里值得注意的是,嘉纳在明治15年(1882)创立了讲道馆柔道、也对警察和军队进行武术指导,武道重新繁荣的士气高涨。在这样的背景下,文部省在明治16年(1883)对体操讲习所进行了“击剑和柔术教育的利弊是否得当”的调查咨询。结果虽然不尽人意,但这确实日本为了学校教育引入武道教育的最初动向。这时体操讲习所举行了柔术和剑术的流派实演。嘉纳的讲道馆柔道却没有演出。在第二年对此事的回应中提到:两种武术的益处有五点:可以帮助身体发育成长、锻炼振奋人的精神意志等等;危害和不便之处有九点:往往难以平衡身体发育、练习的时候会有一定危险、难以让身体适度运动、强者和弱者同时练习容易出现过激反应、容易引起精神激动、会动不动就养成粗暴之风、对于教学场地的面积有一定的要求等等。因此可能不适合引进。对于当时的武道来说,可能没有考虑到学生的发育和发展阶段的指导方法等等。当然的结果也是可想而知的。此后,文部省在明治29年(1896)向学校卫生顾问协会咨询了在卫生角度是否可以引入剑术和柔术。得到的回答是:对于16岁以上的身体强壮的人只在正式的课外活动中也不可以随意选择科目。一部分承认了与体操讲习所同样的答复。虽然有这样的不确定性,作为学校的体育正课,柔道的引入也逐渐有了较大的变动。经过帝国议会的讨论,在明治44年(1911)的中学校令整改中提出:选修科目中可以在体操中加入指导性的击剑和柔术,这代表了日本学校武术教育的正式开始。为了武术教育,日本武德会在明治44年专门设立了武术教练培训所,在之后的大正8年(1919)改成了武术专科学校。
摘译自《体育授業における武道(柔道)の在り方》
(吉澤正伸、宮腰三幸,北翔大学生涯スポーツ学部研究紀要 7,109-123,2016)
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